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十字架の丘の歴史と現在 〜ヨーロッパ屈指のパワースポット〜【リトアニア】

こんにちは!たかです。

 

本日は

 

十字架の丘

 

について紹介させていただこうと思います。

 

 

みなさんはこの十字架の丘をご存知でしょうか。

 

見るからにインパクトありますよね。

 

正確な数はわかってないんですが、丘に立っている十字架は5万本って言われてるそうです。

 

十字架の丘はリトアニアのシャウレイという街の近郊にあります。

 

 

2008年にはユネスコ無形文化遺産に登録されました。

 

一見なんか不気味な感じもするんですが、この十字架の丘は次の4つの意味を持つ場所になってます。

 

・独立のために命を落とした人々を慰霊する場所

・リトアニア人の信仰心の強さ

・平和と愛の象徴

・未来への希望を願う場所

 

今回はこの十字架の丘がどういった場所なのか、歴史を振り返りながらお伝えしようと思います。

 

動画版はこちら↓↓↓

目次

歴史

 

十字架の丘の起源ははっきりとはしていませんが、17〜18世紀と言われています。

 

日本で言えば江戸時代くらいですかね。

 

当時はリトアニアのあたりはロシア帝国が支配していました。

 

リトアニア人はロシア帝国から独立するために、何度か独立戦争を仕掛けます。

 

その戦いで犠牲になった人たちを祀るために、丘に十字架を立て始めたのが始まりとのことです。

 

 

長らくロシア帝国の支配下に置かれていましたが、第一次世界大戦の時にはドイツ帝国の支配下に入ります。

 

1918年のドイツ帝国崩壊後に、リトアニア帝国として再度独立を果たします。

 

 

しかし、いったんは独立していたのですが、第二次世界大戦中の1944年にソ連の侵攻を受け、再びソ連領となってしまいます。

 

ここでまた十字架の丘の話に戻ります。

 

ソ連はロシア正教

リトアニアはカトリックで、

宗教がそれぞれ異なっていました。

 

ソ連はリトアニア人に対して、カトリックのラテン十字の使用を禁止しするなど、理不尽な弾圧をしました。

 

当然、丘に十字架を立てることも禁止しました。

 

しかしソ連に対する不満や理不尽な宗教弾圧に対して、リトアニア人は暴力による抵抗ではなく、

 

非暴力

 

による抵抗を選びました。

 

ソ連の体制への非暴力の抵抗運動として十字架を丘に立て続けました。

 

丘へ行き、十字架を捧げることでリトアニア人たちは彼らの宗教への忠誠心を示したんです。

 

当然、ソ連は面白く思わないですよね。

 

このことをおもしろく思わないソ連は実に四回もブルドーザーで撤去したそうです。

 

丘に十字架を立てることを禁止して、破ったら投獄されることもあったようです。

 

それでも、何回撤去されても翌日には新しい十字架が立てられていたそうです。

 

投獄などの罰を与えられるリスクを負いながら、ソ連の目を盗んで夜間に十字架を立てにいっていた人もいたそうです。

 

50年もの間、ソ連に支配されてはいても、信仰心を貫き、独立までリトアニア人としてのアイデンティティを守り切ったのです。

 

1991年のリトアニア独立後も十字架はどんどん増え続け、現在では5万本にもなるとのことです。

 

 

現在

 

リトアニア屈指の観光地となっていて、ヨーロッパ中から観光客が訪れてます。

 

未来への希望を願ったり、亡くなった親族を慰霊するために十字架が立てられるなどしているため、今でも十字架の数は増え続けています。

 

入り口のお土産屋さんで十字架を買うことができ、観光客も立てることができます。

 

僕も立ててきました。

 

まあ、名前間違ったんやけど。

 

まとめ

 

リトアニアは長い歴史の中でソ連やドイツなどの大国に幾度となく支配されてきました。

 

独立のために多くの人の命が失われたり、理不尽な宗教弾圧を受けました。

 

十字架の丘は、それら大国に対して抵抗し、リトアニア人としてのアイデンティティを守り切った象徴と言える威厳ある場所になっています。

 

また平和と愛の象徴としてヨーロッパ中から観光客が訪れています。

 

少々アクセスが面倒なところにありますが、リトアニアに行った際はぜひ十字架の丘まで足を延ばしてみてはいかがでしょうか。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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